基本情報
書名 | 著者 | 読了日 | 評価 | 分野 |
時間と自己 | 木村敏 | 2022年2月12日 | ⭐️⭐️⭐️⭐️ | Philosophy |
読書メモ
臨床心理学者として精神病患者に向き合ってきた筆者が、時間と自己、その遠大なるテーマを語る。
まず筆者が述べるのは、”もの”の世界と”こと”の世界は異なるということだ。”もの”は客観的な実在であり、西洋哲学の基本はこの”もの”をありのままに観察すること・知覚することを目指して発展してきた。一方、この世界は”もの”だけで成り立つわけではなく、”こと”の世界、「私がここに存在していること」というような主観的な世界もあって、両者が混じりあっているのである。この”こと”という感覚は、優れて日本的な特性であるといってもよい。
ここから筆者は時間の本質についての議論を進めていく。では時間とは客観的実在、すなわち”もの”なのだろうかー。そうではない、と筆者は説く。
確かに近代科学は”もの”的な時間の計測を可能にしたが、ある瞬間どんな時間を指しているかそれ自体が意味を持つわけではない。時間とはいまを基準とした、より先とより後を含めた広がりとしてとらえられる、私自身と不可分な”こと”であるのだ。例えば離人症患者は”もの”的な知覚には一切問題はないが、自己の主体性の感覚を欠き、”こと”的な知覚ができないことによって特殊な時間の感じ方をする。一瞬一瞬の今が断片的な”もの”としてしか知覚されず、時間の広がりという”こと”を知覚できないがゆえに、「私が私である」という感覚を欠いてしまうのだ。
時間は”こと”であるがゆえに、我々と異なる時間の感じ方をするケースは他にもあり、その一例が分裂病者である。(今の表現だと統合失調症、名前が改められる前に書かれている。)統合失調症患者は、筆者に言わせると、「未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている」のだ。統合失調症患者は現在を否定し、未知なる到来することのない未来を期待する。これは「アンテ・フェストゥム(前夜祭的)」な時間の感じ方だ。過去から今に至る自身の自己を受け入れられていないがゆえに、今の自己自身から断絶された、将来性を失った未来を見るのである。
もう一つの対照的な例が鬱病患者である。鬱病患者の時間の感じ方は「ポスト・フェストゥム(後の祭り的)」である。それゆえに鬱病患者は取り返しのつかない過去に対する後悔にさいなまれるのだ。
精神病例によって類型化することはできないが、ここに「イントラ・フェストゥム(祭りの中)」的な時間の感じ方という分類を追加することも可能だろう、と筆者は説く。健康的な人であっても誰もが時に感じる、「現在」が全てであるように感じる感覚―もまた存在する。
ここまで精神病の例を見ていく中で、時間の感じ方は自己の感覚によって全く異なるということが明らかになった。結局、時間とは”もの”ではなく”こと”であり、自己性とは全く切り離せないものなのだ。誰もが異なる時間性を持っていて、それが異常となって表れるのが精神病なのだろう。
本書は時間に対して全く新しい知見を与えてくれる本である。確かに”過去””現在””未来”をどう感じるかは人によって違うというのは直感に沿うけれども、精神病患者の事例を見て時間の感じ方をパターン化すると、時間に対する理解が深まるということは新しい発見であり、その思索の深さには感銘を受けた。
一言コメント
臨床心理学の知見から時間の感じ方について語った本ですが、今まで全く考えてみもしなかった知見をくれる素晴らしい本でした。(お会いしたことはありませんが、私の遠い親戚のようです。何だか嬉しくなりますね。)
2022/10/2