『絶対に面白い化学入門 世界史は化学でできている』

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絶対に面白い化学入門 世界史は化学でできている左巻健男2021年9月26日⭐️⭐️⭐️Science

読書メモ

世界史は化学でできている―、本書はそのタイトルの通り、世界史を化学の視点から読み解いたものである。
最初の方の3章は化学史に近いよう思われる。ギリシア哲学に始まって、メンデレーエフによる周期表、アインシュタインによる分子の実証まで、人類は万物の根源が何であるかを徐々に解き明かしてきた。この根源に迫る歴史自体が世界史を構成しているといっても過言ではないかもしれない。
第4章以降は化学の活用の歴史である。まず扱われる燃焼は人類にとって欠かせない現象だ。燃料革命によって人類は先史とは比べられないほどのエネルギーを得られるようになっていて、これが現代文明を支えている。次の章では身近な水を扱う。水は生命に欠かせない一方で、その汚染は感染症の温床にもなった。食料もまた化学と切り離せない存在である。料理とは化学の賜物でもあるのだ。ガラスや鉄、金銀といった人類を変えた素材もまた化学の産物であるし、現代文明は巨大な石油産業によって成り立っている。いうまでもなく、化学には負の一面もある。殺虫剤DDTは一時夢の物質だと考えられたが、その毒性が明らかになった。火薬の進歩は多くの人の命を奪った。その最たるものが化学兵器であり、核兵器である。人類は自らの種をも滅ぼす化学の力を得るに至ったのだ。
本書を読むと、化学がいかに人類の歴史を大きく変えてきたかがよく分かる。自らの生命を脅かすほどに、であはあるがー。これからの人類史もまた化学と絡まり合って展開していくのだろうか。興味は尽きない。

一言コメント

化学×世界史の本。こういう本が多く読まれれば、文理という不毛な区分で学べる内容が大きく制限されてしまう現状が少しは変わるかもしれません。
2022/10/2

『ミゲル・ストリート』

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書名著者読了日評価分野
ミゲル・ストリートV・S・ナイポール2022年9月10日⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

ノーベル文学賞作家V・S・ナイポールによる本作品の舞台はトリニダード・トバゴの首都ポート・オブ・スペイン。ミゲル・ストリートは街に無数に存在するストリートの一つである。本書はミゲル・ストリートに暮らす普通の人々の暮らしを描いたものだ。
名前のないものを作っている大工ポポ、進学が叶わずゴミ収集カートの運転手になったエリアス、詩人ワーズワース、花火技術者モーガン、そしてストリートのグループのリーダー役であるハット。様々な人々が登場する。彼らの生活には憎めない明るさがあるが、一方で閉塞感があり、とりわけそれが女性や子どもを含む他者に対しての暴力として現れている。主人公もストリートの生活を楽しむが、そこが一方でガラが悪く、先がないことも分かっている。幸いにして外国の大学に合格した主人公がミゲル・ストリートを去っていくところでこの物語は終わる。
この物語で書かれるミゲル・ストリートの生活は確かに明るく楽しいところもあって、エキゾチックな異国の無垢な暮らしを称賛したいような気持ちになるけれども、彼らの暮らしは決して上品ではなく、やり場のない怒りからの暴力的な行動で傷ついている人たちがいるのもまた事実である。
そんな複雑な感想を抱きつつ、遠いトリニダード・トバゴの風情にしばし浸ってみるのもいいかもしれない。

一言コメント

トリニダード・トバゴのストリートに生きる人々を描いた作品です。温かみがある一方で、どこか閉塞感もあって、彼らは果たして幸せなのかと思わず考えてしまいます。
2022/10/2

『侍女の物語』

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侍女の物語マーガレット・アトウッド2022年9月10日⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

侍女の物語―、それは女性が抑圧されたディストピア社会を描いたあまりにも有名な小説である。この物語世界ギレアデの中では、女性は生殖を行う存在としてしかみなされていない。女性は厳しく階級付けがされ、主人公「オブブレッド」が属する侍女階級は、司令官と呼ばれる男性の子どもを産む役割だけを負う。侍女たちには自由な会話さえ許されておらず、男性の欲望を煽ってはならないという理由から、常に顔を隠して生きることを強いられている。財産や仕事を持つこともできない。反逆あるいは不妊(この責任は全て女性に帰させられる―)の代償は汚染された土地での悲惨な生活である。主人公はほんの20年ほど前、娘や夫と暮らした幸せで自由であった過去を思い出すが、過去は政府によって一掃されている。堕胎は過去に渡って大罪とみなされ、堕胎に手を貸した医師は見せしめで殺されて吊るされる。「オブブレッド」という名前も、男性の名前プラス所有格であり、女性はそのアイデンティティさえも奪われている。女性の自由が何もない悲惨な世界だ。
そんな世界に強く反感を抱きつつも、主人公オブブレッドは現状を変えることはできず、ただ生き延びていく。彼女の友人モイラは勇敢にも抵抗を試みるが、オブブレッドは同じようにはできない。そんな中、オブブレッドは司令官の気まぐれによる誘いを受け、一時逃亡への希望を得る。が、それは仮初めのものだった。政府の高官である司令官は、オブブレッドを欲望が禁止された世界の非公式な売春宿に連れていき、快楽を得ようとしただけだった。希望が失われ、その後の彼女の姿は語られない。
そんな彼女の絶望的な語りが終わった後、小説は数百年後の未来に飛ぶ。未来の歴史研究家がこの時代の研究を行った成果を発表している。そこでは、この小説の語りは、オブブレッドによってどうにか口伝されたものだということが判明する。抑圧された社会で何かを残したオブブレッドの勇敢さが明らかになった。
この物語は最後まで救いはない。オブブレッドの最期は誰も知らないし、登場する女性の多くは悲惨な人生を送っている。男性もまた不幸な社会だ。快楽は厳しく抑圧され、司令官にならない限り侍女を与えられることもない。それでも、オブブレッドのような名もなき女性の勇敢な行動が、この社会を変えていったのだという希望だけは最後に感じさせられるようになっている。
小説として面白いわけではなく、読んでて苦しくなる内容であるが、本書がフェミニズム運動にもたらした影響は大きいだろう。現代であっても完全に女性への抑圧がない社会はどこにもないし、一歩間違えればその先はギレアデであると、厳しく警鐘を鳴らすのがこのディストピア小説であるからだ。

一言コメント

読んでで苦しいディストピア小説です。こんな社会にならないように努力していかなければなりません。物語としては面白いわけではないですが、広く読まれるべき作品です。
2022/10/2

『アルジャーノンに花束を』

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アルジャーノンに花束をダニエル・キース2022年8月20日⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

主人公チャーリー・ゴードンは知的障害を抱え、32歳になっても幼児並みの知能しか持っていない。本書はそんな彼と知能を巡る物語である。
チャーリーはベイカリーで働く日々を送っていた。周囲の人間はチャーリーを馬鹿にしているが、彼自身はそれに気が付かず、彼らをとても賢く優しい友達たちであると考えている。「友達」とそれなりに幸せな時間を過ごす一方で、彼は「頭がよくなりたい」とも願っていた。
そんな中、チャーリーはストラウス博士の「頭をよくする」実験に被験者として参加する。この物語は実験に参加したチャーリーの「経過報告」という名の独白によって進んでいく。
実験当初のチャーリーの文章は支離滅裂で、誤字も非常に多い。一方で、「友達」を素晴らしい人たちだと思う純粋さを持っていた。そんなチャーリーだが、実験は一時成功しているように見え、どんどんその知能を高めていき、文章の内容も高度になっていく。ただ、彼はその一方で見たくなかったものも見えるようになっていった。「友達」は自分のことを馬鹿にして笑っていた。彼が他の人と同じようにできないことに耐えられず、家を去った母の記憶がよみがえった。同時に彼は愛を知り、アリス・キニアン先生のことを深く愛するようになる。しかし、彼の知能は高くなりすぎて、彼女と一緒に居続けることはできない。
高い知能を持つに至ったチャーリーだが、同じく実験を受けていたネズミのアルジャーノンの様子から、今回の実験の理論的限界を知る。確かに知能は高まっていくが、その後はまた知能が失われるのだ。彼の知能は急速に失われていき、キニアン先生との関係も終わってしまった。その中で「友達」が本当の意味で「友達」であるとチャーリーが感じられたのは数少ない救いであるかもしれない。再度文章は元の状態に戻っていく。「アルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください」という最後の言葉がただ切なく響く。
この物語は知能を巡る切ない物語だ。「頭がよくなれば幸せになれる」、チャーリーのその期待は、知能の高まりとともに人の醜さが見えるようになったことで裏切られた。高い知能の中、自らの知能が再び失われる避けがたい未来を知ったチャーリーの内心はいかばかりか。それでも最後には、今までのように「友達」に愛されるチャーリーの姿が救いになった。
知能によって容赦なく人が評価される現在において、この物語が突きつけている問いはなお重い。

一言コメント

知能を巡る悲しい物語です。知能によって厳しく評価されるこの世界で、この作品をどう受け止めるべきか、未だに分かっていません。
2022/10/2

『自負と偏見』

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自負と偏見ジェイン・オースティン2022年8月12日⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

イギリスの田舎町ロングボーンに暮らすベネット一家。彼らの暮らす町に資産家ビングリーが引っ越してくる。女性が働いて資産を持つことは難しく、女の幸せは結婚にしかないと思われていた時代、ベネット夫人は玉の輿を狙って5人の娘をビングリーと結婚させようと試みる。最初の出会いで、美しく純粋な長女ジェインはビングリーと相互に惹かれ合うが、次女エリザベスは気位の高い友人ダーシーに対して第一印象から反感を抱く。ダーシーはエリザベスに心惹かれていたのだが―。
その後物語はジェインとビングリー、ダーシーとエリザベスを中心に展開していく。ジェインとビングリーは誰が見ても惹かれ合っているのに、身分の違いと双方の慎重な性格もあって中々進展せず、周囲の人間の干渉によってビングリーはロングボーンを去ってしまう。エリザベスは、ベネット家の遺産の相続権を持つミスター・コリンズから求婚されるが、コリンズの俗物さに嫌気がさして求婚を拒絶する。その後エリザベスは町で出会った見た目のいいウィッカムに惹かれ、彼からダーシーの悪い噂を聞いたことで、一層ダーシーに対する憎しみを募らせる。ダーシーがエリザベスに対する強い想いを募らせているなど露知らずー。その後、ついにダーシーはエリザベスに求婚するが、ダーシーを憎むエリザベスは冷たく拒絶する。ダーシーは去るが、エリザベスの誤解を晴らすため長文の手紙を送る。手紙を見たエリザベスは、その後ダーシー周囲の人間からの評判も聞き、第一印象でダーシーに対して持った偏見から、彼のことを誤解していたのではないかと思うようになる。ダーシーもまた、自分のような身分の高い人間がエリザベスのような身分の低い人間に拒絶すると考えもしなかった自らの高慢を恥じ、考え方を改める。
少しずつ二人の間に合った高慢と偏見が溶けていく中、ウィッカムとエリザベスの愚かな妹リディアが未婚で駆け落ちするという大事件が起きる。そんな事件において、ウィッカムと深い確執がありながら、自らの名を明かさず、ベネット一家の危機を救ってくれたダーシーの行動にエリザベスは感銘を受ける。一時は拒否した求婚、エリザベスもダーシーに対して複雑な感情を持ちながら会うが、ダーシーの気持ち変わっていないどころか以前より強くなっていた。偏見から解き放たれたエリザベスもダーシーを深く愛するようになり、二人は幸せな結婚をするに至る。時を少し遡り、ジェインとビングリーも結ばれていた。
この小説は、エリザベスが偏見を、ダーシーが高慢さを持ち、それゆえに一時すれ違っていた二人が、それぞれの過ちに気づき、幸せな結婚を迎える物語である。二人ともが成長して最後に幸せになれるストーリーは読んでいて気持ちがいい。何より、女性の立場がまだ弱かった時代に、自らの意見を確かに持ち、自立しているエリザベスは本当に魅力的なヒロインである。恋愛小説の金字塔、ここにあり。

一言コメント

いやあ、エリザベスいいですね。そんなに恋愛小説は読んでいなかったのですが、高慢と偏見はさすが最高傑作と呼ばれるだけあります。ジェイン・オースティンの世界に深くハマってしまいました。是非多くの人に読んでほしいです。
2022/10/2

『白鯨(上)』『白鯨(下)』

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書名著者読了日評価分野
白鯨(上)ハーマン・メルヴィル2022年7月17日⭐️⭐️⭐️⭐️Literature
白鯨(下)ハーマン・メルヴィル2022年7月31日⭐️⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

(上)
Moby-Dick、白鯨―それは一匹の鯨との戦いを描いた物語であるが、そこにあるのは一つの小宇宙であると言っても過言ではないだろう―。
本作の主人公はイシュメールという名の若者だ。彼は外の世界見たさに捕鯨船に乗ることを決意し、捕鯨の町ニュー・べドフォードを訪れる。そこでクィークェグという”食人種”と心を通わせたイシュメールは、彼と共に捕鯨船ピークォド号に乗り込み、大海に漕ぎ出していく。しかし、出航して時間が経ってようやく船員の前に姿を現した船長エイバフは、自らの足を食いちぎったMoby-Dickなる白鯨に異常なまでの復讐心を燃やす男だった―。彼の狂気的な復讐心はやがて船員にも伝播していくが、大海の中すぐにはMoby-Dickには出会えず、嵐の前の静けさというばかりに淡々と捕鯨船は進んでいく。
その間、捕鯨に関してあらゆる観点からの知識が語られる。聖書の物語や鯨の分類学、各種文献からの引用など、その知識の幅広さには感嘆させられる。
鯨を特に愛するものでない限り、本筋に関係のない話がひたすら展開されるのを読むのは苦行でさえある、が―、少しずつ、少しずつ引き込まれていくのだ、捕鯨という一つの世界に。

(下)
下巻ではいよいよピークォド号が鯨と出会い、実際に鯨を仕留めるところが描かれる。巨大なる鯨という存在を、ボートで取り囲み、銛を打ち込んで殺していく様子はまさに生命を賭した争いと言う他ない。その後は鯨の解体について詳細に語られる。鯨の巨体を分解していくと、当時の捕鯨の目的であった鯨油が大量に手に入る。生々しい描写から、鯨という存在の巨大さがこれでもかというほど伝わってくる。
そんな中、ピークォド号はいくつかの捕鯨船と出会い、確かに、少しずつ、Moby-Dickに向けて近づいていた。復讐に狂うエイバフは台風に向かって舵を切るなど、狂気の命令を下し、船員の命を危険にさらす。理性的な一等航海士スターバックはエイバフを殺害することまで考えるが、最後には思いとどまる。
そして、ついに出会ったMoby-Dick。複数日に及ぶ追跡劇の中、命を懸けた争いが続く。が、Moby-Dickはあまりにも強大な存在であった。最後にはピークォド号がMoby-Dickによって容赦なく破壊され、エイバフやスターバック、クィークェグを含めた乗組員たちは全員海の藻屑となって消えた――、ただ一人戦いの途中で跳ね飛ばされ、ボートで漂った末に救出された主人公のイシュメールを除いて。
この物語は鯨への復讐に燃えた狂気の男エイバフの戦いと破滅を描いたものである、が、本筋を外れ捕鯨に関してあらゆる知識が語られるのが何よりの特徴である。そのせいでとにかく長い物語を読むのは苦しいが、捕鯨についての生々しい知識のおかげで、21世紀に生き当時の捕鯨の状況を全く知らない人間でさえも、捕鯨という小宇宙にこれでもかというほど取り込まれてしまう。それゆえ最後のMoby-Dickとの戦いのシーンがド迫力で心に残るのだ。これほど長い読書を乗り越えたからにはこの本は名作に違いないと思いたがる人間心理のバイアスはあるかもしれないけれど、決して全員にお勧めしたい本というわけではないけれど、それでも世界的な傑作であるということは間違いないと思う。

一言コメント

こんなに長くて退屈な作品、一生読まないと思っていました。気が向いてしまったので挑戦。さすがに脱線が多くて半分くらいは読んでいて苦行なのですが、やはり骨の髄まで捕鯨ワールドに引き込まれた後の後半の畳みかけは圧巻です。かなりの洋書ファンだけに読むことをお勧めします。
2022/10/2

『車輪の下』

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書名著者読了日評価分野
車輪の下ヘルマン・ヘッセ2022年7月10日⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

自然を愛する純粋な少年ハンス。彼は幼い時分よりその才覚を認められ、周囲の期待に応えるべく必死に勉強に打ち込み、2位という優秀な成績で神学校に合格する。一見すると順調で模範的な進路だが、規則に縛られ、数多くの勉強を強いられる神学校の生活は息苦しいもので、少しずつハンスは心身のバランスを崩していく。そんな中、詩を愛する唯一の友人ハイルナーが脱走騒ぎを起こして去っていき、ハンスも学校を去って地元に戻ることになる。
地元に戻ったハンスは見習工として改めて人生を送ろうとするが、俗世間的な生活にもまた順応することができない。最後には彼は誤って川に落ち、短い生涯の幕を閉じる。
この物語にはヘルマン・ヘッセ自身の人生が投影されている。ヘッセもまた神学校を去り、自殺さえも考えるようになったが、見習工として立ち直り、詩への情熱から小説家としての成功を手にした。ハンスは存在しえた彼の分身とも言えるかもしれない。
純粋な心を持った少年が周囲の大人たちの勝手な期待や規則によって押しつぶされていくのはきっと現代でも起こっているだろうし、それゆえにハンスの悲しい最期は今でも我々の心を打つのだろう。

一言コメント

純粋な少年が周囲の大人の勝手な期待によって潰されていく切ない物語です。個人的にはそんなに好きな作品ではないのですが、多くの人に支持されている何かがきっとあるのでしょう。
2022/10/2

『鉄の時代』

基本情報

書名著者読了日評価分野
鉄の時代J・M・クッツェー2022年7月9日⭐️⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

70を超え、ガンに侵される老女カレン。この物語はそんな彼女が遠くアメリカで暮らす一人娘にあてた遺書という形をとる。
全身を蝕む痛み、近づく死。自身の体がモノのように思えてしまう日々。一人娘も異国にいる中、彼女は孤独な時間を過ごす。そんな中出会ったのが、勝手にカレンの屋敷に住み着いていた浮浪者ファーカイル。ファーカイルもまた孤独な存在で、育ちゆえに愛を知らなかった。交わるはずのなかった二人だが、少しずつ交流が生まれ、カレンは徐々に彼に特別な想いを向けるようになり、一人娘に遺書を渡すという大事な役割を彼に委ねる。彼はカレンの想いに応えて遺書を届けてくれたのかは、死んでいくカレンには分からない。母から受けたものと同じような愛を娘に求めたいが、自らのプライドゆえにそれができず、代わりに別の存在を求めた老女の孤独な想いが切なく響く。
死にゆく彼女を置いていくように、時代もまた激動していた。時は1986年、アパルトヘイトが限界を迎える中、黒人たちは立ち上がり、終わりの見えない血みどろの抗争が続いていた。カレンの家に来ていた黒人のメイドフローレンス。彼女の息子ベキも抗争に巻き込まれて凄惨な死を迎え、その友人ジョンもまた彼女の屋敷で警察に銃殺される。未来がある若い命が大義の名のもとに失われる。死が近い彼女の「未来を捨てないで」という心からの叫びが苦しい。同時に、白人であった彼女は黒人の置かれた現実を目の当たりにし、自らの生活がどれほどこの差別の構造に支えられてきたかを思い知る。そこにあるのは恥辱―、自らもまた加害者であるという苦しい気持ちに他ならない。
死にゆく老女の孤独と恥辱に塗れた内心を描いたこの作品はとにかく苦しい。どこにも救いはないのだけれど、せめて彼女に思いを託されたファーカイルが遺書を届け、彼女の娘に受け入れられ、愛を知る未来が来ることを願ってしまう。
アパルトヘイト末期という時代を踏まえながら、死にゆくものの内心を見事に描いた作品。傑作という他ない。

一言コメント

いやあ、よくもまあ中年の男性作家が死に瀕した老女の内面をこれほど深く書けるな、と思います。これがノーベル文学賞作家の力かと思わされますね。クッツェーは是非読んだ方がいい作家の一人だと思います。
2022/10/2

『月と六ペンス』

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書名著者読了日評価分野
月と六ペンスサマセット・モーム2022年7月9日⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

架空の天才画家チャールズ・ストリックランド。本作品は小説家の主人公がその生涯を語ったものである。
主人公はストリックランド夫人に招かれた夕食会でストリックランドに出会うが、その時の彼は証券取引所に勤める冴えない男で、傍目からは、十分な収入と魅力的な妻、子どもたちを持つそこそこ幸福な人間に見えた。が、事態はその後急転する。ストリックランドは突如として妻子を捨て、画家の道に進むためにパリに移住したのだ。主人公は彼を追いかけるが、幸福な生活を全く未練なく捨てる彼の態度を全く理解できないまま終わる。
その後数年して、お人好しの画家の友人ストルーヴェを介して、主人公はストリックランドに再会する。ストリックランドは変わらず誰にも見せるでもなく絵を描き続けていた。ストルーヴェだけは彼の才能を見抜き、彼に支援を申し出ていた。そんな折事件が発生する。ストルーヴェ夫人ブランチがストリックランドを愛してしまい、ストルーヴェを捨てて去っていく。その後ストリックランドはブランチを捨て、世を儚んだブランチは自ら命を絶つ。ストリックランドはその期に及んでなお罪悪感を感じてもいなかった。
それからが年月が経ち、ストリックランドは稀代の天才画家ともてはやされるようになり、主人公はストリックランドの足跡をたどり、彼が晩年を過ごしたタヒチを訪れる。そこで彼は現地の女性と結婚し、絵を描き続けた。
主人公の目から書かれるストリックランドの姿はつかみどころがない。幸福と言える生活をあっさり捨て、周囲の人間を不幸にさせてなお、誰に見せるでもない絵をひたすら描き続けた。生前はその絵も全く評価されなかった。ただ表現したい何かがあったに違いない。
この作品は、「どこかにいたかもしれない天才芸術家」の物語だ。その行動は周りからは理解されないし、作品の評価も受けられない。ただ激情だけがそこにある。そうした人たちのほとんどは歴史に埋もれているだろうと考えると、一種の切なさを感じずにはいられない。ただ、そうした架空の天才を作り上げたのはまた見事な所業と言えるだろう。

一言コメント

天才によって振り回される周りの人の人生を思わず考えてしまって、この作品は個人的にはあまり好きではないです。そんな登場人物に感情移入せずに読めば面白いのかもしれませんが。他の人の感想も気になるところです。
2022/10/2

『嘔吐』

基本情報

書名著者読了日評価分野
嘔吐ジャン・ポール・サルトル2022年7月2日⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

不労所得で生活しており、ロルボン侯爵の伝記を書くことのみに力をかけている青年ロカンタン。この物語はロカンタンの一人語りの形式で進んでいく。
ロカンタンはアニーと別れて以来、孤独に暮らしている。数少ない人との関わりは、欲を満たすためのマダムとの夜と、図書館で出会う「独学者」との会話くらいである。そんな彼は時折理由の分からない「嘔吐」感を抱く。サルトル哲学的に言えば、「実存の苦しみ」と言えるだろうか。生に本質はなく、ただ「実存」していていることの苦しみだ。
そんな彼に「独学者」は、独自の哲学を説く。本質に先立つ実存がないのであれば、自ら主体的に世の中に投企せよ、そうして社会の中に生きるのだ、と。が、ロカンタンは「独学者」のヒューマニスト的な哲学を受け入れず、去っていく。
その後彼は過去の恋人アニーと久しぶりに再会し、何かが変わるのではないかと期待する。が、アニーも今や自由な「冒険家」ではなく、二人の関係が元に戻ることはなかった。
ロルボン侯爵の伝記も彼の人生に意味を持たせるものとはなりえない。そんな彼が最後意味のない実存に意味を持たせるために選んだもの―、それは小説という表現行為をすることだった。
この小説は必ずしも面白い物語ではない。ロカンタンが実存の苦しみに抗う中で、後にサルトル哲学と呼ばれるようになる考え方に出会う話であり、一世を風靡した「実存主義」がよく表現されているということができよう。ほとんどの人は「実存」の苦しみを味わうというほどに「実存」と向き合ってはいないだろうと思えるし、「実存」を考えすぎるべきではないと思うけれども、本書に表現されるようなサルトル哲学は今でも独特の魅力を放っていることは間違いない。

一言コメント

内容も難しいですし、小説として面白くはないです。が、サルトル哲学は今も魅力的だと思います。人生に迷ったらこの本を読んで実存について考えてみてもよいのかもしれません。
2022/10/2