『野火・ハムレット日記』

基本情報

書名著者読了日評価分野
野火・ハムレット日記大岡昇平2022年7月1日⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

『野火』
敗戦の色濃い大戦末期のレイテ島、一兵卒田村は病のため、病院からも部隊からも追い出され、事実上死の命令を告げられる。死に直面し、異国の地で孤独に過ごす中で、彼は深い内面世界に入っていく―。
絶望的な状況でも彼は生き続けるが、その中で誤って現地フィリピン人女性を殺害してしまう。生と死が絡まり合う極限の世界。自らの血を吸った蛭や草をも食べ、命をつないでいく。そんな彼は戦友と再会し、一時の人間としての感覚を味わうが、永松は”猿”の肉を食らって命をつないでいたー。田村も意図せず”猿”―死した日本兵―の肉を食らい、永松を殺す。そしてついには田村も狂い、気が付いた時には戦場を離れて病院にいたー。
こんな風に物語のあらすじを書いてみたけれど、この物語のほんの一部も伝わりはしないだろう。そこにあるのは地獄を超えた世界で、言葉で形容できるものではない。戦争を経験していない身として、真に理解することは恐らくないが、それでも内面に強く働きかける力があるのが戦争文学だ。

『ハムレット日記』
叔父クローディアスに父王を殺され、母ガートルードを奪われたデンマーク王子ハムレットの復讐劇はあまりにも有名であるが、本作品はハムレットの内面を日記という形式で描いたものである。原作におけるハムレットは、迷える存在という印象が色濃いが、本作におけるハムレットは極めて冷酷で合理的だ。
どこまで原作か、どこまでが本作品による脚色か混乱してくるほどリアリティがある。確かに、ハムレットが冷酷なマキャベリストであったらどんな物語になっていたか―それを考えるだけで面白い。

一言コメント

日本の戦争文学『野火』。そこで描かれる世界はやはり衝撃でした。やはり戦争を過去のものにしないために、読み継がれていくべき作品です。
2022/10/2

『蒲団・一兵卒』

基本情報

書名著者読了日評価分野
蒲団・一兵卒田山花袋2022年6月26日⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

30半ばの小説家竹中時雄。妻子ある身でありながら、新婚の時の熱情はとうに冷め、仕事への熱意も薄れかけていた。そんな中、美しく、文学への情熱にあふれた女性芳子が彼の下に弟子入りを志願してくる。時雄はよき師を装いながら、芳子への道ならぬ恋に溺れていく。
時雄の芳子への恋は、一線は越えないまま続いていくが、芳子が田中秀夫という学生と付き合いを始めたことから状況が変わっていく。時雄は内心煩悶としながらも、二人の恋の擁護者として、芳子の父母に二人の関係性の維持を訴える。しかし、芳子と田中が肉体的な関係を持っていたと発覚し、当時の価値観では到底許されるものではなく、芳子は地元に戻っていく。彼の恋は終わり、また元の味気ない生活が戻ってきた。
本作品は作者田山花袋自身の体験を基に書かれたことで有名であるが、家庭を持ち、世間的に地位も高い中年の作家が、一回りも年下の弟子に恋情を抱く様子を赤裸々に描きあげた本作品はセンセーションを巻き起こしたであろうことは容易に想像ができる。
内面は激情に飲まれつつ、最後まで時雄は世間体を保ち続けた。中々描かれないが、世間的には立派とされている人の内面にもこうした激情があるというのは普遍的なものであるのかもしれない。

一言コメント

若い弟子への既婚者の横恋慕―、いやあ生々しいですね。これが自身の経験を基にしているというのが一層すごいです。傑作なのかはさておき、色々衝撃的な作品であることは間違いないです。
2022/10/2

『アブサロム・アブサロム(上)』『アブサロム・アブサロム(下)』

基本情報

書名著者読了日評価分野
アブサロム・アブサロム(上)フォークナー2022年6月19日⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️Literature
アブサロム・アブサロム(下)フォークナー2022年6月26日⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

(上)
壮大な野望の他には何も持ち合わせず、南部の架空の町ヨクナパトーファ郡に現れたトマス・サトペン。彼は一時サトペン100マイル領地を築き、繁栄を極めるが、一族そろって悲惨な結末を迎える。
本作品はサトペン一家の破滅の謎を、50年近く後から振り返って解き明かしていくという構造をとる。大きな謎は二つ。サトペンの息子ヘンリーは、妹の婚約者ボンを100マイル領地で殺害して失踪したが、何故このような罪を犯さねばならなかったのか。サトペンの妻エレンの妹ローザは、何故サトペンを憎み続けて生きたのか。クエンティンの父ミスターコンプソンやローザの語りから、少しずつサトペン一家の全容が明らかにされていく。
上巻はサトペンがヨクナパトーファ郡に現れ、栄華を極めた時期を中心に描かれる。どういうわけかコールドフィールド氏に取り入ったサトペンは周囲からの信用を求めて娘エレンと結婚し、サトペン100マイル領地を築く。ヘンリーとジュディスの姉妹が生まれ、はサトペンの野望は満たされているように見えた。(サトペンの悪魔的な人間性から、決してサトペンの周囲の人間は幸福ではなかったけれども)。問題が起きたのは、息子ヘンリーがチャールズ・ボンを伴って100マイル領地に帰ってきたクリスマスの夜。サトペンはボンとジュディスの結婚に強く反対し、憤ったヘンリーは家を出ていく。この理由を、ミスターコンプソンは、チャールズ・ボンが混血女性とすでに結婚し、子どもを儲けていたことにあると推測する―が、これには下巻で疑問が呈される。

(下)
下巻では、クエンティンの学友シュリーヴとの語りから多くの謎が解けていく。まずトマス・サトペンが野望を抱いた原点、それは幼く貧しい白人少年だった頃、荘園主の黒人奴隷に門前払いされた経験にあった。それゆえサトペンは、多くの黒人奴隷を隷属させ、大農園を運営するという野望を抱いたのだ。その野望においては、”黒人の血”は介在してはならない。サトペン最初の妻は混血であり、息子も黒人の血を引いていたため、彼は二人と離縁する。
そこまでして土地を去り、首尾よく白人の妻を手に入れ、大農園を築いたサトペンだが、南北戦争に突入し、南部が破滅に向かっていくのと合わせるように、運命の歯車が狂っていく。捨てたはずの息子チャールズ・ボンがヘンリーの親友としてサトペンの目の前に現れたのだ。ボンとジュディスの結婚は破滅を意味する。彼はヘンリーに真実を告げ、彼らの間を割くために動く。ヘンリーはボンとジュディスが異母兄弟であることまでは受け入れるが、ボンの黒人の血だけは受け入れられず、ボンを殺すに至る。子孫を失ったサトペンはローザに言い寄るが、自らの血の継続のみを求める悪魔的態度にローザは激怒し、去って行く。最後には貧しい白人ウォッシュ・ジョーンズの孫娘ミリーに手を出すが、生まれたのが女の子だと分かるとミリーを邪険に扱い、それがゆえにサトペンはウォッシュに殺される。
サトペンの野望は潰え、唯一残った子孫は黒人の血を引き、知的障害を背負ったジム・ボンドだけだった。
この物語は悪魔的な人間であるサトペンの破滅物語ではあるが、彼の人生には南部のたどった運命が色濃く表れている。そもそも彼が野望を抱いたのも白人至上主義がゆえであったし、最初の悲劇を招いた遠因は”黒人の血”を恐れる心理にあった。サトペン100マイル領地が没落したのも黒人奴隷が解放されたからであった。貧しい白人ウォッシュ・ジョーンズが、サトペンの悪魔的な人間性を見てもなおサトペンを妄信していたのも、黒人にさえ馬鹿にされる南部の貧困白人の鬱屈した気持ちからだっただろうし、それが最後にサトペンの死を招いたといってもいい。
全く、南部という土地のなんと呪われたことだろう。本作は珠玉の傑作だ。

一言コメント

壮大な物語の中で、アメリカ南部の屈折した歴史を見事に描き上げたフォークナーの傑作です。フォークナー、一気に好きな作家になりました。長くて読むのは大変ですが、個人的にはかなりお勧めしたい作品です。
2022/10/2

『ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』

基本情報

書名著者読了日評価分野
ゴドーを待ちながら/エンドゲームサミュエル・ベケット2022年6月18日⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

ゴドーという謎の存在を待っているらしい二人の路上生活者ウラジミールとエストラゴン。この戯曲は二人の間の会話を中心として展開するが、特に何かが起きるというわけではない。数少ない変化はポゾーとラッキーという男の登場だ。ラッキーは奴隷のような立場に身をやつしているが、唐突に意味不明な説教をたれ始める。一日の最後には男の子が登場し、ゴトーは今日は来ないと告げて第1章は幕引きだ。さらに混乱するのは第2幕。二人がゴトーを待っている様子は昨日と変わらないが、昨日と連続しているようで連続していない。ポゾーとラッキーも登場するが、ポゾーは盲目になり、まるでラッキーが主人であるかのような様相だ。最後に二人は自殺を試みるが、失敗したところで物語自体も幕引きとなる。
全体を通して全く意味は分からない。ゴドーとは誰か、さえも明らかにされない。第1幕と第2幕の繋がりも謎である。無限の解釈に開かれていて、不条理文学、ポスト・モダン文学の極致とされる理由はよく分かる。一方で、無限の解釈に開かれていると言えば聞こえはいいが、ただ意味不明な作品にも思えてくる。こうした作品の解釈を大真面目に議論するのがポストモダンであるとするならば、それにはどこかで馬鹿馬鹿しさを感じるし、100年後の人間からは駄作と一蹴されている可能性さえもあると思うけれど、ただ無視していい駄作と断言しきれない自分も確かにいる。全く難しいポストモダン文学である。少なくとも、その意味不明さを忘れることはできないだろう。自分と同じく困惑を生むことは間違いないと思いつつ、他の人に勧めたくなる部分もまた確かにある。

一言コメント

意味不明!です。これは傑作なのでしょうか。その良さが理解できるようになる日が来る気はしませんが、これがポストモダンということがよく分かるので、一回読んでおいて損はないと思います。
2022/10/2

『贈与論』

基本情報

書名著者読了日評価分野
贈与論マルセル・モース2022年5月22日⭐️⭐️⭐️Anthropology

読書メモ

贈与論、それは人類学者の書いた中で最も有名な書物だといっても過言ではないかもしれない。本書はマルセル・モースが様々な民族誌を読み解きつつ、包括的に贈与について語ったものだ。
現代資本主義においては、市場における売買という交換形式があまりにも自明視されているが、人類は決して売買によってのみ交換を行ってきたわけではなかった。贈与という形式もまた重要な役割を果たしているのである。
一方、ここでいう贈与は一般的にイメージされるような善意に基づくものとは限らない。様々な地域で見られるように、贈与を送ること、受け取ることさえも時として義務なのだ。「ポトラッチ」と呼ばれる全体的給付は、異なる氏族、家族間で関係を築くための契約である。交換の対象は時として「子ども」となることもあり、母方と父方の財産の交換の役割を担う。
モースは贈与の形態を様々な地域の民族誌の内容を引用しながら語る。地域によっては、贈与の裏には霊的なものと結びつく所有の概念が見られる。信用と期限、名誉もまた、義務的な贈与を支える概念に他ならない。贈与を受けたら期限までに返すことは信用に関わる。クランの名誉も贈与によって支えられていることがあり、それゆえに誰もが鷹揚に振る舞うのだ。
このように、人間が社会の中で連帯して生きる上で、贈与という形態は欠かすことができないものであった。筆者は最後の章で、民族誌から学ぶべきことを語る。それは、資本主義が発展した今であっても、互酬的な贈与の仕組みは社会の連帯において極めて重要だ、ということだ。
贈与の重要性を説いた本書は資本主義が猛威を奮う今の時代においても、変わらず読み継がれるべき価値を持っているだろう。また、そのほとんどを捨象してしまったが、本書は様々な地域の民族誌に拠っており、大量の脚注が付与されている。文化人類学がもたらす深い知恵がそこにはあり、現代人が学ぶべきことはきっと本書の内容以外にもあるだろう。

一言コメント

あまりにも資本主義に毒されてしまった現代において、贈与という交換形態の重要性を説いた本書は大きな意義を持つと思います。本書の中で描かれる贈与は決して善意だけに基づくものではなく、義務でもあって、時には堅苦しい印象を受けるのですが、それでもこうした慣習は今の社会においても必要ではないでしょうか。
2022/10/2

『だからフェイクにだまされる』

基本情報

書名著者読了日評価分野
だからフェイクにだまされる石川幹人2022年5月22日⭐️⭐️Philosophy

読書メモ

現代ほどフェイクが猛威を奮っている時代はないだろう―。本書は心理学の観点からフェイクに騙される理由を解説したものである。
1点目は見かけが作るフェイクである。人は見かけがいい人の言葉を必要以上に評価してしまうが、現代は見かけを装う演出に溢れている。それを見抜くのは容易ではないが、演出による影響を割り引いて考える必要があると筆者は説く。
2点目は共感に訴えるフェイクである。人間は古代の狩猟採集の時代から、他人と協力するために共感能力を発達させてきた。人間関係が希薄になり、以前のように評判が共有されない現代においては、人間の共感力をフェイクに利用されるリスクが高い。共感が利用されていないか問う必要がある。
3点目は言語が助長したフェイクである。言語は単なる意思疎通手段を超えた力を持っており、人に虚構を植えつけ、行動を変えさせることさえできるのだ。言語の限界を知る必要がある。
4点目は自己欺瞞に巣くうフェイクである。人には自己肯定感が必要だが、これほど多くの人と関わる世界で自己肯定感を持ち続けるのは容易ではない。それゆえ自己欺瞞が生まれるのだ。承認欲求を満たしたいという気持ちは、SNS上でフェイクに利用される可能性がある。
5点目は科学の信頼を利用したフェイクである。人間には確証バイアスがあり、自分の思い込みと一致するような科学的な装いをした主張を安易に信じてしまいがちである。さらには、最新の科学理論は日々更新されており、一般市民に伝えるのは容易ではない。
6点目は誤解から生じるフェイクである。誤った情報が飛び交う現代だが、見知らぬ人同士、一度生まれた誤解を訂正することは容易ではない。すぐに誤解を基に人々は先鋭化してしまうのだ。メディアの信頼性と自由のバランスの在り方も再考するべき時だ、と筆者は主張する。
最後7点目は結束を高めるフェイクである。人は誰もが集団に所属する。集団に対する共通的な敵の存在をほのめかされたりすると、人の部族意識があおられ、先鋭化しがちである。部族意識を利用されていないか内省する必要がある。
フェイクを心理学的な観点から解き明かしていくと見えてくることは、我々が先史時代から生き抜くために育んできた心理や行動基準が、現代の自由で多様化した社会構造とミスマッチを起こしており、その部分にフェイクがつけ込んできている、ということだ。フェイクを撲滅するのは容易ではないが、本書のような知見が、少しでもフェイクの撲滅に寄与することを願いたい。

一言コメント

これほどフェイクが流行っている時代は過去ないでしょう。自分自身フェイクに注意しなくてはというのは改めて思います。一方、こんな本もフェイクに騙されて過激化している人々にはきっと届かないのでしょうね、と思うと無力感にかられてしまうのです。そんな中でもできることをしていくしかありません。
2022/10/2

『三十六歌仙』

基本情報

書名著者読了日評価分野
三十六歌仙吉海直人2022年5月21日⭐️⭐️Literature

読書メモ

三十六歌仙は、藤原公任撰の『三十六人撰』を基にして作られた一首歌仙本である。数多くの優れた歌人が選出されているにも関わらず、その知名度は百人一首と比べると極めて低い。本書は三十六歌仙について、歌人ごとに数種の歌と共に紹介した本である。当然のことながら百人一首とのかぶりも多く、見慣れた歌も多いが、三十六歌仙にしか登場しない歌を含め魅力的な点は多い。
本書の特徴の一つは、歌仙絵に注目していることである。後世に書かれた歌仙絵は所収歌との相関関係が推測されるものもある。その点を含め、筆者は歌仙絵についても丁寧に解説していっている。
本書を読んでも、中々三十六歌仙は記憶に残らない。今後含めて百人一首ほどの熱量で三十六歌仙を学ぶことはきっとないだろう。しかし、百人一首だけではない豊かな世界が確かにある、と知れただけでも十分だ。

一言コメント

百人一首以外の歌って本当に覚えられないのですが、私だけでしょうか。本書の三十六歌仙も、歌人の名前、収録されている歌ともにほとんど記憶には残っていないのですが、三十六歌仙という豊かな世界の一片を見ることができたのでよしとしたいと思います。
2022/10/2

『すべての季節のシェイクスピア』

基本情報

書名著者読了日評価分野
すべての季節のシェイクスピア松岡和子2022年5月15日⭐️⭐️⭐️Literature

読書メモ

シェイクスピア研究者の筆者が、シェイクスピア作品の魅力を語り尽くす。
「ロミオとジュリエット」はあまりにも有名な作品であるが、ジュリエットの年齢が13歳として設定されていることはあまり知られていない。そして、劇中で出会いから悲劇の結末までの期間はわずか5日間だ。なんと若く、短い期間の激情だろう。
「オセロー」のデズデモーナもまた若いヒロインで、オセローとの結婚生活もわずかな期間で終了する。イヤゴーの姦計にあっさりとはまっていくオセロの愚かさが目立ってしまう作品だが、デズデモーナの若さと純真さを考えると、死の淵にあって彼女が発した叫びが一層心に刺さるのだ。
「マクベス」は運命によって身に合わない王位を目指してしまった男の悲劇である。マクベスの人生も魅力的ではあるが、「マクベス夫人はシェイクスピア作品に登場する女性で唯一名前を持たない」ということを知ると、途中までマクベスを励まし、王暗殺計画に駆り立てたマクベス夫人が、最後には蚊帳の外になっていく現実が切なく響く。
「ハムレット」の主人公ハムレットは「見られる」主人公だ。彼は宮廷中から注目され、その中で逆に視線を返す。複雑に交差する視線の中、劇中劇までもが交えられることで、観客を含めたハムレットという劇の重層性が生まれるのだろう。それゆえハムレットの演出は様々で、それぞれに魅力があるのだ。
一冊を通し、シェイクスピア作品への愛が伝わってくる。シェイクスピア作品は普通に読んでも面白いが、一層シェイクスピア作品を読みたくなった。

一言コメント

シェイクスピア作品っていいですね。作品を読んだ後にこうした文学研究者による感想文を読むと、一層その魅力が伝わってくるように思います。
2022/10/2

『責任と判断』

基本情報

書名著者読了日評価分野
責任と判断ハンナ・アレント2022年4月30日⭐️⭐️⭐️⭐️Philosophy

読書メモ

国家の名の下に集団的な犯罪が行われたとき、その責任を問うということがいかに難しいか―。『エルサレムのアイヒマン』『人間の条件』といった著書で有名なハンナ・アレントが、彼女の中心主題であった罪を巡る思想を語る。
第一部の主題は責任である。アウシュビッツという破壊的な犯罪が行われたとき、その罪をどう裁くべきだろうか。ドイツ人全てが罪を負うという「集団責任」が主張されることもあるが、集団すべてに責任があるということは誰の責任も問えないということだ、と著者は喝破する。同様に、アイヒマン裁判で展開されたような「歯車理論」も誤りだ、と筆者は主張する。単に命令に従う歯車であったから責任はない、というわけではない。裁かれるべきは個人である。国家的な犯罪で、合法的であったとしても、不参加という人間の尊厳と名誉を保った行動も可能であったはずだから、人間の良心に反する行為は裁かれるべきなのだ。
その後筆者はカントの道徳哲学などを引きながら、個人の道徳を考察していく。恐れるべきは「判断をしないこと」だ。選択する意志を失ったとき、人の良心は麻痺し、悪の構造に巻き取られていってしまう。
第二部では判断を主題とし、アメリカにおける人種差別問題について語られた後、話はニュルンベルク裁判の裁判記録に戻る。アウシュビッツは極限的な状況であって、罪を犯さないことは不可能であった。それでも、とりわけ犠牲者に残虐行為を働いた所員はいたし、そうした人間は罪を問われた。
1冊を通して分かるのは、国家的な犯罪を裁くことの難しさである。極限的な状況で個人にできることは少ない。それでも、各個人は選択する意志を失わず、自ら巨悪に与しないよう判断し続けることはできる。したがって、この状況下でも個人の罪を問うことは可能なのだ。恐れるべきは選択する意志を失い、無関心になった個人である。アウシュビッツを繰り返さないために―、今なお読まれるべき思想家であるに違いない。

一言コメント

人道に反する行為を強いるような構造の中で、個人としてどう振る舞うべきか―。究極的な状況の中で行われた行為をどう裁くべきか―。本当に難しいテーマです。ロシア兵士の残虐行為も伝えられる中、ハンナ・アレントの向き合った問いは(残念ながら)今も全く色褪せていないということがよく分かるのです。
2022/10/2

『サロメ』

基本情報

書名著者読了日評価分野
サロメオスカー・ワイルド2022年4月29日⭐️⭐️Literature

読書メモ ※ネタバレを含みます

美しき王女サロメは、月明かりの夜に預言者ヨカナーンに恋をするが、ヨカナーンはサロメを拒絶する。それを受け、サロメはエロドにヨカナーンの首を所望する。最終的にサロメはヨカナーンの首に口づけをし、サロメ自身も王によって殺される。官能的で死の雰囲気が漂う中で物語が終幕する―。
そんな要約を付してみても、この戯曲の魅力はは少しも伝わらないだろう。そもそも戯曲として書かれているので、文章だけを読んだところで、この作品の一片しか鑑賞できていないことは間違いない。拒絶された愛しい人間の生首に口づけをするサロメの狂気―、そして戯曲全体に漂う官能的で死を感じさせる雰囲気―、思わず舞台作品として味わいたくなる。
オスカー・ワイルドの『サロメ』は、世紀末において、ファム・ファタールの象徴としてのサロメの名を広めた作品としてあまりにも有名だ。なるほど確かに、ヨカナーンの生首を持って、妖し気に、愛おし気に微笑むサロメの絵は――、想像するだけで頭に焼き付いて離れない力を持っている。それがこの作品の力なのだ。

一言コメント

ヨカナーン(預言者ヨハネ)の生首を持つサロメ、というのは西洋美術においても多く描かれていますが、その妖しい魅力を広めたオスカー・ワイルドの原作を読んでみました。舞台作品として是非見てみたいです。
2022/10/2